過去公開作品

●ニキフォル −知られざる天才画家の肖像−
●ヤカオランの春 −あるアフガン家族の肖像−
●アンナ −まなざしの向こうに−
●チェ・ゲバラ −人々のために−
●HELLO HEMINGWAY ハローへミングウェイ


ニキフォル  〜 知られざる天才画家の肖像 〜
第40回カルロヴィ ヴァリ国際映画祭(チェコ)
グランプリ、最優秀監督賞、最優秀女優賞、
特別賞ドン・キホーテ賞
写真を掲げる少女
★映画の詳細は『二キフォル公式HP』をご覧ください
エッセイ『ニキフォルと私』 パイオニア映画代表 丹羽 高史


ヤカオランの春  〜 あるアフガン家族の肖像 〜
平成15年度東京ウィメンズプラザ民間活動助成対象事業
文部科学省選定(少年向、青年向、成人向)
日本映画ペンクラブ推薦
やがて教師は語り始めた。封印された暗い過去の秘密を、故郷で起こった衝撃の真実を―。
写真を掲げる少女
★制作:「ヤカオランの春」制作の会 制作協力:RAWA(The Revolutionary Association of the Women of Afghanistan)
パイオニア映画シネマデスク
2004年/日本/ドキュメンタリー/DVカム/ スタンダード
カラー/上映時間1時間23分
★スタッフ
企画・制作・監督・・・・・川崎けい子、中津義人
脚本・編集・・・・・中津義人
撮影:堀田泰寛(JSC)、川崎けい子
音楽・・・・・吉田哲、児島由美
録音・効果・・・・・福田 伸、瀬谷 満
ダリ語翻訳・・・・・駿渓トロペカイ
ダリ語朗読・・・・・駿渓ナーデル
内戦の激戦地、ヤカオラン。

美しい大地は血で染まり、人々は悲しみに沈んだ。

アリ・アクバル、タジワール夫妻は、生きるために故郷を逃れ、難民となった。

そして、自らの人生を子どもたちに語り始めた。

平和を希求する人々へ、
あるアフガン家族からのメッセージ。
ヤカオラン地図
■イントロダクション
 平和を希求する人々へ、あるアフガン家族からのメッセージ。

 アフガニスタンは、建国以来、イギリスやロシア、アメリカなどの大国、さらに隣国イランやパキスタンなどに翻弄され続けました。1979年のソ連の侵攻、そして十年後の撤退、さらにその後も続く内戦、過激なイスラム原理主義の台頭、タリバン支配、9.11以降の米軍攻撃まで激動の渦に中にありました。その結果、やむなく国を逃れる難民も絶えることがありませんでした。そして戦いと難民が日常化してしまったこの国はやがて、世界から忘れられた国となりました。

 こうした状況に対して、多くのアフガニスタン人は言います。「戦争前は、平和でよかった」と。しかし「平和でよかった」と思われた時代に重大な問題があったから、戦争をまねいたのです。多くの人々が漫然と「平和」だと思っている間に、問題が悪化し、気がついたときには戦争に突き進むしかなくなっていたといえるでしょう。それは日本の現在とも重なり合う状況なのです。

 アフガニスタン内戦の原因は、何だったのでしょうか?そして、なぜ、20年以上も戦いが続いてしまったのでしょうか?長期にわたる戦争は、社会や人々に何をもたらしたのでしょうか?

 アフガニスタンでは長い間、女性は男性に従って生きるものとされ、多くの女性は読み書きを学ぶことすら許されませんでした。それは、力の強いものが支配し、服従を強いる社会でもありました。こうした社会のありようが、内戦の一因だったのではないかと思います。

 アフガニスタン内戦の原因が、今なお未解決であるなら、再び同じ悲劇を繰り返すことになるかもしれません。

 アフガニスタンに悲劇をもたらした原因が何だったかを見つめることで、「平和」に潜む罠の存在を提示したいと思います。そして、アフガニスタンや日本、世界の国々で、同じ悲劇を繰り返さないために、わたしたち一人一人に何ができるのか、何をすべきなのかを考えるきっかけになればと願い、「ヤカオランの春〜あるアフガン家族の肖像」を制作しました。

■物語
2003年春、パキスタン・ペシャワール郊外のアフガン難民キャンプ。教師のアクバル(51歳)は、難民キャンプの学校で子どもたちにアフガニスタンの歴史や地理を教えて細々と家族の暮らしを支えていた。一見平穏な日常生活の中で、その胸中に去来するのは、戦争に翻弄された無念の人生、亡くなっていた人々の思い出、そして、今なお還ることのできない祖国アフガニスタン、故郷ヤカオランへの望郷の想いであった。また、拷問などで痛めつけられた身体は思うように動かず、目も少しづつ見えなくなりつつあった。 これ以上、教師を務めることは困難と悟ったアクバルはある日、子どもたちを前にこれまで自分が生きてきた人生を語り始めた。故郷で、祖国で何が起き、何が変わっていったのか。村の人々や自分の兄弟、親戚がどのようにして生命を落としていったのか。妻や娘たちがなぜ、教育を受けることも出来なかったのか。祖国の明日を担う子どもたちに、どうしても伝えなければいけないと考えたアクバルの特別授業であった。  授業は次第に熱をおび、子供たちとのやりとりは、緊迫していく。やがて、教師アクバルは、決して語るまいと心の奥底に封印していた暗い過去の秘密を吐露し始める。それは、故郷で起こった衝撃の真実だったー。



アンナ まなざしの向こうに 上映申込受付中!
ANNA WUNDER
アンナ・ヴンダー
★ドイツ/パンドラ・フィルム、
C−フィルムズ=パイオニア映画シネマデスク
/2000年/カラー/98分
★スタッフ
監督、脚本/ウラ・ヴァグナー
製作/カール・バウムガートナー、クリストフ・フリーデル
撮影/ヨランタ・ディレウスカ
音楽/トマス・オスターホフ
★キャスト
アンナ/アリス・ディーケリング
ソフィー/レネ・ソーテンダイク
ロリ/シュテファン・デルグリュン
フランツ/ゲッツ・シューベルト
フリッツ/フィリップ・ペータース
■あらすじ
 少女アンナの瞳に映る母と娘、男と女の愛の物語

 1960年代初めのドイツ郊外、草原を駆け抜ける一人の少女がいた。少女の名はアンナ、11才。父親はいないが、母親のソフィーと幼い弟のローリーと親子3人明るく毎日を過ごしている。父親であるはずのフリッツの記憶はアンナにはない。ソフィーから聞かされたのは戦争に行って戦死したこと、近所の工場を経営している短気なフランツの弟であったということだけだった。

 父親がいない事にアンナ自身不満はなかったが、気がかりなのは愛する夫を失ってから仕事もせずに酒に溺れる毎日を送る母ソフィーの事だった。当然のごとく生活は苦しく途方に暮れていたある日、ソフィーはアンナにフリッツが実はまだ生きていて、フランスのどこかで暮らしている事を告白する。『死んだはずのパパが生きている!』―アンナは嬉しかった。いつか父親に会える事を夢見て前向きに生きて行ける。ソフィーもアルコール中毒での入院から回復し、家族が幸せになりかけたある日、一通の手紙がソフィーの元に届いた…。そこには意外な事実がアンナを待っていた。アンナはほんとうの父親に会えるのか?アンナの瞳に映るのは…。

 主人公のアンナを演じるのは、ドイツ国中でのオーディションによって抜擢され、本作がスクリーンデビューとなった、アリス・ディーケリング。デビュー作とは思えない演技もさることながら、彼女の大きく力強い瞳が、主人公アンナの辛く苦しい生活の中でも明るく前向きに生きる様を一層際立たせている。アンナの母親ソフィーを演じるのは、オランダ出身で、ポール・バーホーベン監督作品やハリウッド作品の出演経験等、国内外で活躍しているベテラン女優のレネ・ソーテンダイク。

 監督は本作が長編映画初監督となる、ウラ・ヴァグナー。初監督とはいえ、これまでのTV作品や短編映画の製作、演出、脚本、編集の経験を生かし、60年代ドイツの田舎町の風景や人々の生活を見事に再現し、母と娘、男と女の愛の物語を女性らしい視点で描いている。

■監督
ウラ・ヴァグナー[ULLA・WAGNER] ★ウラ・ヴァグナー
ドイツ・デューレン生まれ。ベルリン大学で演劇やジャーナリズムを学び、81年からTVシリーズや映画の製作、演出、脚本、編集、キャスティングなど、さまざまな部門で多くの作品に関わってきた。児童むけの短編映画の脚本・監督のほか、映画財団の奨学金による製作プロジェクトのための脚本も手がけ、本作で長編劇映画を初監督する。ケルン在住。

CHE GUEVARA チェ・ゲバラ -人々のために- DVD・ビデオ発売中!
CHE GUEVARA
「あの頃世界で一番かっこいいのがゲバラだった」 ジョン・レノン
■アルゼンチン/マルセロ・シャプセスプロダクション=パイオニア映画シネマデスク
1999年/カラー/35ミリ/88分
成功は、まさにゲバラの存在なくして考えることはできない。その後、彼は名誉や地位をあっさりと捨て、理想を求め国境を越えた新たな革命へと旅立つ。

「自由を求める人々が、僕のささやかな努力を望む限り闘い続ける。永遠の勝利まで。革命か死か。」−ゲバラがカストロに宛てた別れの手紙の言葉どおり、彼はコンゴそしてボリビアで懸命に闘い、ついに銃弾に倒れ夢に散る。映画は、革命の象徴として偶像化された英雄の生きざまを、膨大な価値ある写真や映像・エピソードを駆使しながら、親しみをもって描いていく。そして、彼の神話を超え、愛すべき人間的な実像を浮き彫りにしたゲバラ讃歌でもある。中でも、シエラ・マエストラで共に闘った同志や、彼の娘アレイダや深い絆をもつ人々によって綴られるゲリラ戦での劇的な記憶や父親との家庭生活の思い出はゲバラの吐息を感じさせ、革命へ情熱に染まってゆく瞬間に宿った命が、今ここに、チェの真の姿となって蘇る。

 魅惑と混沌に包まれたキューバには、今なお、澄んだ目で見つめるベレー帽に髭もじゃの風貌の写真や肖像が街のいたる所に飾られ子ども達は揃えて「チェのようになりたい」と歌う。彼らの英雄に向ける愛と尊敬のまなざしに、チェの遺志が人々の心に永遠に生き続けていることを感じさせる。

 命を賭して変革を求め続けたチェ・ゲバラの意思精神は戦士を讃える歌声となって、今も世界中に鳴り響く・・・。
■スタッフ
監督、脚本・・・マルセロ・シャプセス
撮影・・・ウンベルト・ヴァレラ
音楽・・・ルイス・マリア・セルラ
録音・・・ホルへ・ブラ
編集・・・ホルへ・エーデルシュタイン
■ドキュメンタリー
★★★★★★★★★★★★★★★
「チェの思想が実現していたら、世界は違ったものになっていただろう。戦士は死ぬ。だが、思想は死なない。」

 フィデル・カストロは、同志を迎える帰還追悼集会で雄弁に語り、押し寄せる沿道の人々もまた、自分の信念を貫いた革命家の高貴な魂に敬意を捧げた。

 キューバ革命−十数人のゲリラから始まった革命軍は、2万人にも及ぶ政府軍との長い戦闘の末、時のバチスタ政権を倒し、貧困に苦しむ人々を抑圧から解放する。その革命軍の中に、アルゼンチン人エルネスト・チェ・ゲバラはいた。”チェ”とは親愛の情を込めたゲバラの愛称である。

 ゲバラは、指揮官として常に勇敢に先陣を切って戦い、カストロも彼の優れた知性と洞察力に裁量を求めた。そんな姿に部下や民衆は忠誠心を強くしていった。奇跡的な革命の
CHE GUEVARACHE GUEVARA
ゲバラが歩んだ39年間の「闘争」の旅路
1997 6月ロザリオにて誕生。
1930 ブエノスアイレスに転居。
最初の喘息にみまわれる。
以降喘息は、生涯彼を苦しめた。
1941 中学校に入学。その夏休み、彼は初めて
1ヶ月にわたる自転車旅行を敢行。
1951 12月より、友人とともにオートバイで9ヶ月にわたる国外旅行に。
1953 大学卒業。軍医への徴用を嫌い、再び旅へ。 ペルー、グアテマラなどに入国。
ここから彼の流浪の人生がスタートする。
7月キューバではカストロが兵営を攻撃し、世にいう「7月26日運動」が勃発。攻撃は失敗、カストロは投獄される。
1954 メキシコに入国。
街頭写真屋を開業する。
1955 ペルー人亡命者、イルダ・ガデアと結婚。
5月に釈放され、夏にメキシコへ亡命したカストロと出会う。そこで結ばれた深い絆によりゲバラは、キューバ遠征軍に参加する決意をする。
1956 長女、イルディタ誕生。
11月25日、カストロ中心とするキューバ反乱軍82名は、8人乗りヨット「グランマ号」に乗り、メキシコからキューバへ出発。ゲバラは軍医として乗船。
12月2日にキューバ上陸。
1957 1月、ゲリラ戦争開始。1959年まで政府軍と一進一退の攻防をくりひろげる。
1959 1月、バチスタ大統領の国外逃亡により、反乱軍が勝利。
5月にイルダと離婚後すぐに
6月、アレイダ・マルチと再婚。
彼女との間に4人の子どもをもうける。
7月、アジア・アフリカへの親善大使として来日。12日間滞在。
11月、国立銀行総裁に就任。
1960 4月、著書「ゲリラ戦争」出版。
1961 2月、工業省大臣に就任。
8月、故郷アルゼンチンへ8年ぶり、最後の帰国。滞在時間わずか4時間。
1964 12月、国連総会キューバ主席として参加するため”敵国”アメリカ・ニューヨークへ。総会では演説も。
1965 1月〜3月までガーナ、ギニア、カイロを歴訪、キューバに帰国後突如、行方不明に。
10月、キューバ共産党発足のさい、カストロより、4月1日にゲバラの記した「別れの手紙が朗読される。
1966 アフリカ・コンゴでのゲリラ戦に参戦後、11月ボリビアに。ボリビアでの様子を記した日記は、「ゲバラ日記」として死後刊行。
1967 ボリビアでのゲリラ戦が本格化。最初は何度か勝利を収めたが、仲間の裏切り、政府軍の兵力増強などでだんだんと劣勢化していく。そして10月8日重傷を負い捕らえられ、翌日射殺される。
1997 30周忌をを迎え、やっとゲバラの遺骨が発掘される。

DVD・ビデオ発売中!
発売・販売:アップリンク TEL 03.6821.6821


HELLO HEMINGWAY 第12回 新ラテンアメリカ(ハバナ)映画祭
ハロー・ヘミングウェイ グランプリ受賞作品
2001年春・公開作品!
HELLO HEMINGWAY
HELLO HEMINGWAY
★スタッフ
監督/フェルナンド・ペレス
脚本/マイダ・ロイェロ
撮影/フリオ・ヴァルデス
編集/ホルへ・アベリョ
音楽/エディシオ・サンチェス
★キャスト
ラリータ/ラウラ・デ・ラ・ウス
ヴィクトール/ウル・パス
ホセファ/エルミニア・サンチェス
トマス老人/ホセ・アントニオ・ロドリゲス
キューバ/ICAIC=パイオニア映画シネマデスク/1990年/カラー/90分
■解説
 アメリカの文豪アーネスト・ヘミングウェイは、のべ21年間をキューバで過ごした。当時のキューバはアメリカの半植民地的存在であり、キューバ人の誰もが、傀傴政権であるバチスター派の崩壊を望んでいた。だがその一方で、若者たちは北米文化に憧れ、エルヴィス・プレスリーやジェームス・ディーンに夢中だった。
 そんな時代のハバナを背景に、一人の少女の魂の成長を、「老人と海」にこめられたエスプリに託して、さわやかに繊細に描き、第12回新ラテンアメリカ映画祭のコラール賞(グランプリ)作品であり、キューバ人が愛してやまない映画である。
 監督のフェルナンド・ペレスは1944年生まれ。ハバナ大学で文学を学んだのち、ICAIの傘下に入った。トマス・グティエレス・アレアなど先輩たちの助監督を経た1987年、長編劇映画「Clanadestinos」でデビュー、本作は第2作目にあたる。
 脚本のマイダ・ロイェロはペレス監督の妻である。彼女は映画のヒロインと同様、ヘミングウェイに魅せられていた。ヘミングウェイがキューバに滞在していた頃の、子供時代の懐かしい思い出、そして革命前夜の緊張したキューバへの愛とロマンが、ここにはあふれている。
■物語
 1956年、貧しい女学生のラリータが住むハバナの家の隣りには、ヘミングウェイの大きな邸宅がある。ラリータは早朝に家を抜け出し、ヘミングウェイ家のプールで、こっそり泳いだりもする。窓の内側の老人は、見て見ぬふりをしている。
 ラリータは「老人と海」の物語が持つ力強さにひかれていた。サンチャゴの漁師の毅然とした態度に、自分を反映させることもある。よりよい未来を求めて、ラリータはアメリカ留学の奨学金を申請することにした。しかし、家族も、愛国者の恋人も彼女の計画には反対だった。そのうえ、留学にはアメリカ国籍をもつ有力な保証人が必要だという。あの有名な隣人に頼んでみよう、ラリータはそう決心した。ヘミングウェイはラリータを助けることができるのだろうか・・・。
■映画「ハローヘミングウェイ」に寄せて
 見終わってしばらくの間、私は席を立つことが出来なかった。
 1961年(昭和36年)3月、私は芸大の声楽科を卒業して、当時はあまり知られていなかったジュリアード音楽院のマスターコースに留学し、メトロポリタンオペラに出演するのが夢であった。東京のアメリカ大使館に何度も何度も足を運んだ。それは書類との戦いだった。私のつたない希望を満たすため、粘りながらも保証人の事、留学の当座の資金(ドル)等のことで問題は山積みであった。
 その頃日本は、一年前の安保騒動の後で世間一般は何か挫折感が漂っていた。それでも八月の終わり、私はニューヨークに向かう事になった。映画では、少女ラリータがヘミングウェイの生まれたアメリカのスタンフォード大学で文学を学ぼうとする。迫るカストロ及びゲバラ率いる革命軍。貧しい家の様子と、上べだけを見る、留学を受け入れる側の事務所の冷たさを映画は映し出す。そんな時ハバナの街中の古本屋の主人が”老人と海”の一節を優しく読んで聞かせるシーンは感動的で私が一番好きなシーンである。それは小説”老人と海”が人生の師であることを教えている。革命のためラリータの留学の夢は消える。しかし映画は人生の一度や二度の失敗に臆することなくヘミングウェイの”老人と海”が描いた人生の洞察、そして人生の希望を映し出す。
 四十年前、お互いに懸命に生きた青春を思い起こさせた素晴らしい映画であった。それは私にとって人生の遠い思い出である・・・。
オペラ歌手・日大芸術学部教授 丹波勝海
★★ヘミングウェイとキューバ★★
 作家アーネスト・ヘミングウェイ(1899年〜1961年)にとって1950年代「老人と海」を書いたキューバでの生活は満ち足りたものであった。午前中に執筆し、それを終えるとクルーザーに乗り込み海にでて釣りをし、夕暮れには友達とハバナのオールドタウンにある好みのバーでダイキリとモヒートを飲む。彼は、キューバで代表作「誰が為に鐘は鳴る」(1940年)、「海流のなかの島々」(1945年)、「老人と海」(1952年)を書く、いずれも映画化され成功している。
 1959年1月カストロ率いる革命軍による革命成功後、彼はアメリカに戻るが、1961年7月アイダホ州ケチャムで自らの命を絶つ。へミングウェイが愛してやまなかったカリブの島キューバを去って、僅か2年後のことであった。


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