丹羽高史 映画祭紀行

●『ニキフォルと私』
●カルカッタ映画祭 日本から「風のかたみ」出品
●カンヌ映画祭 ホテル事情
●「チェ・ゲバラ」雑感 彼の実力と魅力に迫る映像





●『ニキフォルと私』 丹羽高史
:2006年 『ニキフォル』−知られざる天才画家の肖像より抜粋
 二年半前、カンヌ映画祭に参加した後、私は友人であるパリ在住の美術史家のタマラ女史と食事をした。タマラ女史とは、1910年代にアメリカのシアトルに絵の勉強に行き、その後アメリカ人の妻と共にパリに渡った画家 田中保の絵を紹介してもらうため偶然知り合った女性だった。藤田嗣治の陰で活躍した田中保の絵の話しの後、私は彼女に「今、あなたが最も注目している画家は誰ですか?」と尋ねると、彼女はニッコリと笑い、紙ナプキンにかわいらしく“NIKIFOR”と書いてくれた。

彼は、1968年に亡くなったポーランドの画家で、風景と教会にあるキリスト像を多く描いているという。絵は素朴で大変魅力があり、これからはNIKIFORについて調べると言って笑った。私は“NIKIFOR”と書かれた小さな紙片を名刺入れにしまった。1994年以来、私は毎年晩秋にバルト海沿岸のグダニスク、ギディニア映画祭に招待されていて、ポーランドは私にとっては身近な国となっていた。ギディニア全ポーランド国内映画祭は、太陽が午後三時過ぎに落ち、外は暗くなるが、その会場は光り輝き映画人の熱気に溢れ、前に横たわる鉛色のバルト海とのコントラストは実に神秘的だった。映画の合間に飲む黒ビールの苦味は、バルト海で開かれる独特な映画祭の味のようで、私は魅了された。

以来、ポーランドのこの映画祭は、私にとって忘れることの出来ないものとなっていた。その年(2004年)のモスクワ映画祭で、ワルシャワ国際映画祭を主催するステファン・ラウデンと知り合った。彼は自国のポーランド映画以外、旧ソビエト圏の国々、特にグルジアとバルト三国、エストニア、ラトビア、リトアニアの映画に注目していた。グルジアのゲオルギー・シェンゲラーヤ監督の『ピロスマニ』について大いに話がはずみ、パーティで話し始めて、その後ホテルのバーでも話し続けた。映画で描かれている画家ピロスマニの持つ独特な性格とグルジアの景色は、後に出会うニキフォルの画風と重なる。通常、映画祭のディレクターは特定の映画監督や国名をあげる事はしない。ディレクターは多くの国の知られていない映画を紹介するのが仕事だからである。そんな彼が私を突然、ワルシャワ映画祭に招待してくれた。

10月の初め、すでに寒く紅葉の始まったワルシャワ映画祭は、それでも旧ソビエト圏の小さな国々の映画人が集まっていて、とても活気があり、映画も多種に渡っていた。会場に行く途中で、通りかかった横道に小さなアンティークの店があり、何気なく中に入ると多くのガラス器、陶器が置いてある奥の方に、一枚の絵があった。なかなか可愛い素朴で心温まる絵だった。とても気に入って店主に尋ねると、クラフク市にある城門の絵を描いたもので、ニキフォルの絵だと言う。私は驚いてタマラ女史が書いてくれた紙片を取り出しスペルを確認し、本当にニキフォル本人の絵であることがわかり密かに買い入れた。会場でポーランド映画を二本見て劇場のコーヒーショップでディレクターのラウデンと会った。映画祭招待の御礼を言うと、彼はこれから特別試写で『My Nikifo(ニキフォル 知られざる天才画家の肖像)』を上映するので見に来るようにと勧めてくれた。先程の絵の出会いのすぐ後で、偶然にもニキフォルの映画も出来ていたことに驚き、期待に胸が高まった。それは夜7時過ぎてからのプライベートな試写であった。監督クシシュトフ・クラウゼはニキフォルの生き様を見事に捉え、彼が生きたポーランド南部の山岳地帯クリニッツアの豊かな自然を、卓越したカメラが映し出し、魅力的な音楽の流れと共に、画家ニキフォルの一途な芯の強さを描いていた。

ラスト、ニキフォルが愛したロック調の力強い音楽にのって、彼の数々の絵がスクリーンに映し出される。それは、富や名声など余分なものは全てそぎ落とした豊かな人生を感じさせる素晴らしい映画となっていた。私はどうしてもこの画家と映画を日本に紹介したいと思い、『ニキフォル 知られざる天才画家の肖像』を買い付けた。

その後、ワルシャワの制作会社からこの映画が7月の初め、カルロヴィ・ヴァリ映画祭(チェコ)のコンペティションに出品される事を聞いた。そして、映画『ニキフォル 知られざる天才画家の肖像』はボヘミアの保養地、モーツァルト、ゲーテ、シラーが愛した美しい緑溢れるこの地でグランプリに輝いた。思えばタマラ女史から教えられたニキフォルがこのように私と関わり、まるで彼が導くかのように、さらに2枚の絵とも出会い手に入れることが出来た。私にとって、ニキフォルは偶然が偶然を呼んで知り得た特別な存在となった。私はタマラ女史に今までの顛末を書き送った。タマラ女史の折り返しの手紙には「おそらくまだ日本では全く知られていないニキフォル、彼の描いた優しい絵と色彩はニキフォルそのものです。どうぞ日本の人達に彼を紹介して下さい、アリガトウ・・・・」なぜか胸がいっぱいになった。私はその「アリガトウ」の中にニキフォルをはじめとする人々のそれぞれの人生の威厳と安らぎを感じた。
(パイオニア映画シネマデスク代表)

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カルカッタ映画祭
●日本から「風のかたみ」出品 丹羽高史
:2000年優秀映画新聞掲載より抜粋
 十一月始め第十五回カルカッタ映画祭に参加した。今年はどうしても日本の女性監督の作品を上映したいということで高山由紀子監督の「風のかたみ」(優秀映画鑑賞会推薦)が映画祭のフォーラム部門に出品。高山監督も参加することになった。バンコックに夜遅く到着。あいも変わらぬ暑さ、そして一泊。翌朝ベンガル湾をひとまたぎで昼過ぎに到着。
 雑踏の飛行場のかたすみにカール・ダック氏がわれわれをあたたかく出迎えてくれた。彼は映画祭の運営委員でもあり有名な映画評論家でもある。かつてこのカルカッタ出身の映画監督サタジット・ライの「大地の詩」を、川喜多かしこ氏がカンヌ英が差に紹介し受賞をもたらした経緯と、彼女の映画に対するヒューマンなスタイルと情熱を私に絶賛し、彼女のマナーは全ての映画人が忘れてはならないと穏やかに私に話したことがあった。
 今でも「大地の詩」は生きとし生ける物の全てとインドの風土を併せて見事に描いた秀作であり、私はそのような無名であったインド映画を世界に紹介した川喜多かしこ氏の仕事はすばらしいと思う。
 行きすがら牛や犬、ロバ、自動車、そして人の群れが混然となって街中を包む風景を見て私は、日本にも欧米にもない全てが一体となって生きる様子に安堵感さえ覚える不思議な魅力を感じた。
 会場であるオリエント劇場はチョンロギー大通りの一本はずれた人、人、にあふれた通りの中にあった。高山監督がスクリーン前に出て「この映画は八百年くらい前の貴族の若い男女の恋物語で、ストーリーは単純でどうぞ日本の昔の伝統と、美しい日本の色彩を十分楽しんで下さい」と伝えると、立ち見客まで出た大きな会場はわれんばかりの拍手であった。
 映画は確かに平安時代の若者と、お姫様の恋物語で分かりやすく、当時の日本の風俗を鮮やかに描きスクリーンに映る紅色が、いっそう美しく描かれ篠笛のかもしだす東儀秀樹作曲のハイセンスなメロディーに私は圧倒された。見終わってインドの若い男性が「美しく劇画調で非常にエレガントだ」と語り、監督にサインをもらっている姿が印象的であった。
 映画が終わり、次のノルウェイの出品作との合間に道ばたのお茶屋であつくて濃いミルクティーを飲む。夜になっても、ものすごり人の波が劇場を取りまいていた。
 フォーラムでは八ヵ国の参加があり、中でもグルジアのカハバル・キカビッツ監督の「湖」が最も心に残る作品だった。グルジアの地方都市を部隊に、父を何者かに殺された少年が転校先でいじめられながらも、やがて大きく成長していく姿を描き、少年達の思春期のけだるさを卓越したカメラが巧に映し出していた。
 映画祭の名誉委員にジロ・ポンテコルボ監督がイタリアから招かれていた。私は若い頃「ゼロ地帯」や「アルジェの戦い」を観て人間が戦う尊厳と、女優スーザン・ストラスバーグ演じる強制収容所での過酷な運命を生きる姿を忘れることが出来ない、と監督に伝えると彼は大きな拍手で私を包むように握手してくれた。
 「風のかたみ」の上映が済みわれわれのスケジュールは終わる。飛行場へ向かう車の窓から偉大なるガンジス川が見える。そこで、ヒンズーのお祈りと沐浴をしている人々が、落ちかける大きな太陽に映し出される。人、牛、犬、そして行き交う自動車を後にハウラ駅のガンジスにかかる大きな鉄橋を、なお大きくなる夕日を背に車は渡っていく。その光景は太陽を歌ったベンガルの詩人タゴールの真に生きる者への賛歌である。インド全土に七万軒の映画館、圧倒的な製作本数と世界唯一アメリカ映画が入り込めなかった国インド。そしてベンガル地方のこの映画祭は何か映画と共に、生きる者の全ての奥が見えるようで私はミルクティーの心地よい香りとともに大地に根ざしたカルカッタ映画祭に参加できた喜びをかみしめた。
(パイオニア映画シネマデスク代表)

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カンヌ映画祭ホテル事情
●「カンヌ映画祭」ホテル事情 丹羽高史
:2001年優秀映画新聞掲載より抜粋
 今年もカンヌ映画祭に参加した。年々映画祭の規模は大きくなっているようで映画祭半ばあたりはピークで大変な混み合いで活気にあふれている。

 朝八時半上映のパレ会場で観るには六時半に起きて七時半に朝食をとるというのは疲れて無理なのだ。それでも私達夫婦にとってカンヌの街中にある木と花にかこまれたプチホテル「プロヴァンス」=写真=に泊まれた事は幸運であった。
プロヴァンスホテル
1996年カンヌ映画祭にくる前に、アメリカのミネアポリス映画祭に招待された。
 宿泊先は映画祭ディレクトーのミルブレム教授宅である。七十歳は過ぎた一人者の家で掃除はまったくしてなく我々夫婦は覚悟して泊めてもらった。帰る当日、教授がカンヌ映画祭に来ているイギリスの配給会社のジェーン・バールファー女史宛てに「ランドリー殺人事件」のフィルムを手荷物としてカンヌまで届けてほしいとのこと。聞いた時、仰天し何回もことわるがカンヌ映画祭での上映がせまっているという。契約上の事もありどうしてもお願いする...。お金はいくらかかってもかまわないといわれ、泣く泣く承知せざるをえなかった。カンヌの届け先はプロヴァンスホテルであった。いよいよ空前のカンヌ行きが始まった。ミネアポリス、シカゴ、パリ、ニース、パリで国際線から国内線に移るシャトルバスにものすごり人と共に自分の荷物とフィルムを運び込む。地獄の苦しみの後国内線のカウンターに到着すると案の定カンヌ映画祭(ニース行)の便は全て満席。がっかいする間もなく遠いが反対側のマルセイユに行くことにする。マルセイユならその日の内に列車で到着できるのだ。
 ところが空港からステーションまでのバスはなく、タクシーで三十キロほど乗る。泣く泣く、タクシー代を払い駅に着いて長いプラットホームを現地の学生に手伝ってもらいながら列車に荷物とフィルムを運び入れてもらい、ふたたびカンヌへ向かう。陽はとうに暮れていた。カンヌ駅に到着、近すぎて駄目だというタクシー運転手を説得してホテルプロヴァンスへ向かった。木と花々にかこまれた魅力的なロビーに偶然バルファー女史がいてその旨を伝えると大きな両腕で私を抱いてくれた。私達はフィルム(32kg)を届けたのだ。その年私のホテルはカンヌ駅より二つ先のピカソで有名なアンティーブ駅に近いモダンなホテルエトワールに決めていた。当時も今もカンヌでは五泊や六泊ではホテルを予約するのはむずかしいようだ。一流のホテルは最低十一泊は予約してほしいという。結局その年は朝の出勤のように十五分列車に乗り海辺をみながら映画祭へかよった。朝はいいのだが夜はつらかった。一回ホテルを出ると遠いので途中ホテルに戻ることが出来ないからだ。
 翌1997年わたしは知り合ったジェーン・バルファー女史に手紙を書く。ホテルと古いなじみの彼女は私をプロヴァンスの有力な客として推薦してくれた。そして二月の始め映画祭の内の五泊を当時の主人が受け入れてくれた。私は感動してそのファックスをみた。そんなわけで四年前のカンヌは私の思ったコートダジュールの映画祭を充分楽しみ、ますますカンヌの魅力を感じた。それは、カンヌに集まる様々な国の映画と人々。その本数は圧倒的で何よりも風光明媚ということがが当てはまる世界で類のない映画祭であることは間違いなかった。しかし、その後ホテルの経営者が変わり昨年まで泊まることが出来ずふたたびアンティーブのホテルに泊まることになった。今年二月新しい経営者から突然ファックスが入り今年は十一泊してもらえればよろこんで受け入れるということだった。五月十日いつもと変わらぬ美しい緑あふれるホテルプロヴァンスに私は四年ぶりに訪れた。
(パイオニア映画シネマデスク代表)

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「チェ・ゲバラ」 雑感
●「チェ・ゲバラ」雑感 彼の実力と魅力に迫る映像 丹羽高史
:2001年優秀映画新聞掲載より抜粋
 「チェ・ゲバラ」の魅力、それは何といっても純粋な正義感である。貧しい虐げられた人々のために何があろうと戦う決意と行動は、現在の世界にはないからである。かれは真実人々のためにキューバで戦った。その戦いはすさまじい限りである。ゲバラは、何回かキューバの解放を試み失敗したカストロとメキシコで出会う。憔悴しきったカストロ。しかし微かな希望を語りかける彼の姿にゲバラは打たれキューバで一緒に戦うことを決意。カストロと共にキューバに再び上陸する。1956年、暮れのことであった。 チェ・ゲバラ
翌57年より59年の二年間のゲリラ戦は映画にも表れているように、一進一退を繰り返しながら、ついに1959年1月、時のアメリカ資本と手を組んだ傀儡政権、バチスタ大統領一派を駆逐する。映画では当時ゲリラ戦を戦い抜いたゲバラについて兵士、従軍看護婦、報道カメラマン達は共通して「きどらず、えばらず、ユーモアを持って、率先して銃を持ち彼は戦った」と証言し、最語にかならず「魅力的な人間だった」とつけ加えている。
 私は映画の中で四十二年前一緒に戦った人々が生き生きと証言している姿に胸がいっぱいになった。ゲバラを語る人々の瞳は輝いていた。
 今、生きていればゲバラは七十三歳、人々にとって遠い思い出である。しかし、ゲバラの思いは不滅だ。
 三年前、「チェ・ゲバラ人々のために」はハバナ映画祭で招待作品として上映された。ラストで心地よい素晴らしいテーマ音楽が流れると観客全員が総立ちで拍手。会場はすごい熱気と興奮につつまれ上映が終わっても拍手は鳴りやまなかった。やっとのことでマルセロ・シャプセス監督が舞台に上がり「私はゲバラがアルゼンチン人であることを同じ国の者として誇りに思い、また彼と一緒に戦い今日まで生き抜いた人々に敬意を表します。そして私は、ゲバラを尊敬しています」と挨拶。再び万来の拍手。監督は長い事、舞台を下りる事が出来なかった。劇場の興奮が去って、しばらくしてから私はロビーで監督に「ゲバラの純粋な人柄と行動が表れていて私は感動しました。それと最後に流れる音楽は希望と不安をにじませた叙情的なテーマ曲が素晴らしい」と伝えると肥大手にいくつもの花束をかかえながら大きな手で握手してくれた。彼は灼熱のカリブ海に浮かぶ島でのゲリラ戦に成功した革命後の政府部内でゲバラが夜も徹して働く姿を映したニュースフィルムを集めるのに三年かかり、その映像は貴重なものばかりだと誇らしげに、私に語りかけた。
 夕方誰もいなくなった劇場を後に、小高い丘のバス停でホテルまでのバスを待っていた時、私の目にコバルトブルーに輝くハバナの海が見えた。それが戦い抜き、働き抜き、人々のために生きたチェ・ゲバラの人生に安らぎを与えるような大きな海であった。
 革命から四十二年、同士カストロは生きている。十年間カストロと苦楽を共に戦ったゲバラは1965年、貧しいボリビア解放のため、キューバを去る。彼は彼の役目と立場を知っていたのだ。そして彼の脳裏には、常に「人々の自由を!」というスローガンがあった。カストロとキューバの人々への別れの手紙は、チェ・ゲバラの全てであり、深く感動的である。「自由を求める人々が僕の力を望む限り僕は戦いつづける。永遠の勝利まで、革命か死か...」
 1967年、十月のボリビアの山中でゲリラ戦を指揮、壮烈な戦士をする。三十九年の人生であった。人々のために戦い働き、自分を主張せず、大きく、何よりも大きな自由と平等を人々のために求めた男チェ・ゲバラ。その姿に人々は感銘を受けるに違いない。
 映画「チェ・ゲバラ人々のために」はげバラその人の魅力を真実の映像が充分に引き出し、彼の存在が偉大であることを証明した。
(パイオニア映画シネマデスク代表)

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